top of page
120099487_2712917599024125_9209683567797181041_n_1.jpg

シャンボール物語

瀬戸内海の因島で生まれ育った初代(藤井 敬三)は

干菓子に魅せられ、和菓子屋を創設。

瀬戸内海の因島で生まれ育った初代(藤井 敬三)は

干菓子に魅せられ、和菓子屋を創設。

瀬戸内海の因島で生まれ育った初代(藤井 敬三)は

干菓子に魅せられ、和菓子屋を創設。

今は尾道市から今治市へ続く「しまなみ海道」の2つ目の島、古くからは瀬戸内海で勢力を誇った「村上水軍」発祥の地としても知られている因島。初代が生まれ育ったころは、本土とつなぐのは、連絡船のみの小さな島に過ぎなかったといいます。

 

初代は、その島にあったお菓子屋も兼ねたパン屋さんの四男でした。近年、その本家からは“打ちもの”といわれる干菓子の押し型がたくさん見つかりました。

 

初代はその干菓子(ひがし)の繊細さに魅せられ、「和菓子の美しさと美味しさをより多くの人々に伝えたい」という強い思いに駆られたといいます。

そして当時三菱重工、帝人などで栄えていた因島から見れば大都会、広島県三原市に移り、1962年(昭和37年)、和菓子屋「清月堂」を創設しました。

干菓子.webp

瀬戸内海の因島で生まれ育った初代(藤井 敬三)は

干菓子に魅せられ、和菓子屋を創設。

瀬戸内海の因島で生まれ育った初代(藤井 敬三)は

干菓子に魅せられ、和菓子屋を創設。

フランス菓子に魅了された二代目(藤井 威士)が

和菓子屋から洋菓子店へ

工芸菓子作りが得意だった初代は、黙々とお菓子作りに没頭する口数の少ない人でした。ただ1度、三代目があんこの炊き方を教えてもらった際に、『焦らずていねいに、【今】というタイミングをよく見ること』ときっぱりと言われたそうです。

 

そんな職人気質の初代目を継ぐため、二代目(藤井 威士)は、和菓子の修行のために大阪へ上ります。

時代は1960年代。「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が三種の神器といわれた時代です。

技術革新が西洋の文化的な生活をもたらすと信じられ、若い女性たちは西洋のテーブルマナーなど、新しい知識や教養が必要と考えていました。

フランス料理やフランス菓子があこがれの眼差しをもって人気を集めて始めたのもこの頃です。フランス人のシェフが来日し始め、料理・菓子の専門学校などでフランスの技術を教えるようになり、今に至っています。

 

そんな時代の流れの真っただ中で、二代目は、フランス菓子の洗練された味わいと見た目の綺麗さに心を奪われました。

株式会社エーデルワイスの創業者、比屋根 毅氏と共にフランス菓子作りの修行を重ね、1966年(昭和41年)には、洋菓子店「エーデルワイス」の立ち上げに参加しています。

 

1972年(昭和47年)に三原市にもどり店を「シャンボール清月」と改装し、洋菓子の販売を始めました。

フランス城郭_edited.jpg

「シャンボール」はフランスのとても綺麗な城郭のこと。

二代目はフランス菓子づくりの修行中に出会ったフランス人シェフから聞いた「フランスではシャンボール城の綺麗さを知らない人はいない」という話に感銘を受けました。

そして自分の洋菓子店がケーキの美味しさはもちろん見た目の綺麗さで、だれもが知る店になるようにという想いを込めて名づけました。

フランス人シェフがこのケーキを「Adecham アデーシャン」と表現しました。

二代目がすでに亡くなっている現在、詳細は分かっていません。

しかし「アデーシャン」にはフランス語での意味はなく、フランス人シェフが「見た目が白く綺麗で美味しいレイヤー・ケーキ」という意味をフランス語的な響きのある「アデーシャン」という造語で表現したようです。

そう、世界にたった1つのケーキとなったのです。

 

そしてこの見た目綺麗な美味しい「アデーシャン」は、二代目の想いが込められたケーキハウス・シャンボールを象徴するケーキとなります。

シャンボール.webp
​- アデーシャン -
adecham​

フランス菓子に魅了された二代目が目指したこと。

それは「美味しいケーキを作って、多くのひとを喜ばせたい」そして「見た目の綺麗なお菓子で日常のひと時を華やかに演出したかったにちがいない」と、二代目の長女、田尻香里。

 

そして、次のように結びました。

「美味しいケーキを作って喜んでもらいたいために、癌を患い最期を迎えるまでモルヒネを飲みながら、父しか作れない繊細な模様のバタークリームケーキを作っていました」。

ケーキハウス・シャンボールを継いだ三代目(田尻 香里)

こうして初代・二代目が広島県の片隅で静かに燃やし続けてきたお菓子づくりの情熱を、身近に肌で感じてきた三代目(田尻 香里)は2005年に店を継ぎます。

 

三代目は幼いころからケーキ屋の娘として近隣に知られていました。高校卒業後の進路に迷った時「一度ケーキ屋から離れてみては」という母親のアドバイスに従い、大阪の短大に進学します。しかし慣れない一人暮らしもあり、居場所のないような疎外感から寂しい日々を送っていました。そんな時、どこからともなく立ち上るケーキ屋さんの「匂い」が懐かしくこころを和ませてくれたといいます。

そして4店舗にも拡大した店の経営が芳しくなくなったことを知り、迷わず短大の進学をやめ、神戸国際調理製菓専門学校に入学しました。1993年のことでした。

 

亡き父が遺した「美味しく見た目の綺麗なお菓子で、できるだけ多くの人を喜ばせる」という想いと昔ながらの製法を、そしてなにより二代目の想いが込められた「アデーシャン」を受け継ぎました。

 

三代目の田尻香里は、さらに二代目の「地元を大切にする」という想いにも共感し、受け継ぎました。

できるだけ地元、広島のレモンやいちごなどの素材を使い、地元の人たちを応援し合うことを大切にしています。

そして添加物を使わず素材の味を大切にしています。例えば、厳選したポストハーベストの心配のない国産(北海道)最高品質の小麦粉やビートグラニュー糖(ていさい糖)など体に優しい素材です。小さいお子さんから高齢の方まで安心して召し上がれるお菓子を心がけ、日々こころを込めて手作りしています。

 

将来への想い。

ケーキ屋は幸せを売る仕事だと思っている三代目

「お客様も私の祖父母の年代からお孫さんまで幅広くなりました。私と同年代のお孫さんと、さらに3代先まで続くお店していきたい」

そして「お客様だけでなく、私の息子(14歳)のような若い人たちが働きたいと思えるような、人に喜んでいただける幸せなお店にしたい」と語ります。

bottom of page